昔書いた土橋の記事

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知人宅にある土橋の古い写真。何があってるのか、ものすごい人出。
左に忠野家具屋が写っている。ここは昭和25年前後に木造のアーケードに建替えられ、分譲販売された。

ところで、ずっと前に「やめぼん」というフリーペーパーに書いた土橋の記事が出てきたので、参考のために書き出しておく。

以下転載。

昭和明治時代の地図を見ると土橋という地名は無い。旧福島城外堀の東側にあるのは唐人町のみ。伊能忠敬も歩いた往還道が城内から東へ向かい延びていた。商人達は旧国道442号線ではなく、この往還道を通って黒木へ向かった。
八女市史から土橋関連の項目を書き出してみる。
明治18年には久留米と熊本を結ぶ国道が、同21年には福島と大川を結ぶ県道が開通している。さらには同36年に山内・羽犬塚間に馬車鉄道が敷設され、現在の堀川バスの場所に本社が置かれる。大正3年には久留米・福島間に三井電車の軌道が敷設。終点は現在の西鉄バス福島バス停の場所。その翌年に福島劇場が開設。
江戸期に発展した福島の町は明治に入り、道路事情の変化に伴い、土橋、清水町へと拡大し、次々と店が作られたようだ。維新後50年、八幡宮と田畑しかなかっただろう土橋は八女地方の交通の要衝となった。
昭和初期に書かれた福島町商工案内を見ると土橋の「若嶋亭(料亭)」「吉野屋(旅館)」「原商店(食堂)」等の広告がある。土橋で生まれ育った大正生まれの女性に聞いた話では、旅館や料亭、食堂などが多かったとか。また、「土橋通」という通り名があるが、町名は西唐人町になっている。

地名「土橋」の由来は諸説ある。
ひとつは土橋通に架かっていた橋が土の橋だったため。その橋が架かっていた川の名前は現在土橋川という。土橋郵便局傍にあるオギノという店の北側を東西に流れる小さな水路がそうだ。橋の古い写真も現存しているらしいが、今のところ未確認である。
もう一つは福島城外堀に架かっていた往還道の橋が土の橋だった説。先の土橋川と福島小学校東側を流れる平塚川、元々外堀だった二つの川を結ぶ水路が日の出屋跡地付近にあったらしい。福島城下の東の構え口であるこの場所に橋があったのは江戸期の地図でも確認出来る。
堀に架かる橋というスケール感からは外堀説のような気もするが、土橋通りという通り名から土橋という地名がついたのであれば、土橋川説も捨て難い。今後の調査が楽しみだ。

また八女市史から。昭和21年5月5日に土橋八幡宮境内にヤミ市が開設。同22年に福島岩田屋が開店。
終戦直後に様子が一変。外地から引き揚げて来た人達が土橋通りに露店を出す。車など無い時代のこと。戦後の物不足で福島の内外から生活物資を求めて人が集まった。土橋通は多くの買い物客で溢れかえった。
当時町内会長をしていたのが福島劇場社長の久木原市次氏。土橋通りの混乱を解決するため、露店を土橋八幡宮境内に移した。最初は間口一間の小さな露店が並んだが、あっという間に建物が建ち並び、現在の形が出来た。これが土橋市場の始まりだとか。
今では飲み屋街として知られる土橋市場だが、当時は「入部食料品」、「馬場食料品」、「堤食料品店」などの生活必需品の店や「ボルネオ」、「シンガポール」、「うさぎや」などの飲み屋が混在し、日中から夜中まで大変な賑わいだった。今の六十代前後の人の中にはここで飲み方を覚えた方も多いだろう。

土橋でもう一つ印象的なのが、土橋商店街と銘打った木造アーケード。専門的には「パサージュ」というらしい。終戦後にアーケードを建設し、分譲販売したものである。これはフランスのパリなどでよくある形態らしいが、一地方都市では稀なケースのようだ。建設された事情については未調査のため詳しいことはわからない。痛みが激しいが、各店舗の上部に貼られたタイルなどを見ると当時としてはモダンだったに違いない。

筆者(昭和45年生)が成人する頃まではまだまだ賑わいの残っていた土橋だが、今では残された建物や営業されている方々の話から往時を想像するのみ。戦前戦後を通じての大変な苦労と当時の人達のいきいきとした姿を何とか伝えられないものかと思う。

以上