外堀を歩く 5

「外堀を歩く 4」で紹介した(第三郭)の項について

『 第三郭は総郭である福島舊城の堀として比較的完全に残って居るのは宮野町新八幡の東側南側を巡る部分である。』

宮野町新八幡というのは燈籠人形の行われる福島八幡宮のこと。
昔の地図には江戸中期に作られた福島八幡宮を新八幡、土橋八幡宮を古八幡と書いてある。

『東側の堀の北部の端は龍洋服店裏の鐵工塲附近で、これが南行して自動車屋向側南筑軌道會社倉庫などをこめて進み、小學校新運動塲東側,福島劇塲の裏手を通り、運動塲南端近くにて東折し,土橋通り裏手にて南折し,土橋に出る。今の十字路より少し西である樋口紙店の附近である。』

龍洋服店裏の鉄工場というのは判らないが恐らく清水町辺りにあったのだろう。
南筑軌道会社倉庫(現在の堀川バスのところと思われる)などをこめて進みとあり、その後の小学校新運動場東側(新運動場ということはあの広い運動場は新しく作られたものなのだろう)、福島劇場(少し前まで公共駐車場になっていたところで最近建ったマンションの西側)裏手、運動場南端近くにて東折というのも今残っている水路と一致する。
しかし、問題はその後の「土橋通り裏手にて南折し、土橋に出る。今の十字路より少し西である樋口紙店の附近である。」の部分。南折した水路の部分は、現状を見る限りでは全く痕跡が残っていない。樋口紙店も古いゼンリン地図(昭和30年代)には載っておらず、位置がはっきりしない。
この南折した部分、江戸期の古地図(外堀を歩く1)にはハッキリ載っている。また土橋という地名の由来になったと思われる橋も架かっていることから存在は間違いないはずだ。
ところで、この部分は古地図を見ると東に向かって凸型になっているのが判る。それで不思議なのは往還道が東西に一直線に伸びていること。
僕は城郭の専門家ではないので正直判らないのだけれど、普通だったら橋の手前で道が曲がっていたりとかしているのではないか。実際この図を見ると、東側も南側も外堀を出る道は橋を渡ってすぐに直角に曲がっている。
ここの場合は堀の外側に土橋八幡宮を作ったのはそれと関係があるのか?
同じ平城で田中吉政が築城した柳川城を見ると何か参考になるところがあるかもしれない。

という訳で情報を求む!
(続く)